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On Desiring-Machines

Ⅰ.「欲望する諸機械(Desiring Machines)」と「器官なき身体(Body without Organs)」

 

 フロイト以来の精神分析は、父を排除し母を独占しようとする子どもの欲望=「オイディプス・コンプレックス」とその挫折=「去勢」を人間の欲望構造のモデルとして位置付け、欲望を実在的な対象の欠如(母の独占の挫折)とそれを埋め合わせる幻想的な対象の生産(夢や神話)において捉えようとしてきました。

 しかし実はオイディプス・コンプレックスは欲望を「父-母-子の三角形」に押し込め、その対象を欠如させることで制度に従属させている装置に過ぎない―とこれを痛烈に批判したのが、哲学者のジル・ドゥルーズと精神分析家のフェリックス・ガタリ(以下、D+G)の共著による『アンチ・オイディプス―資本主義と分裂症』(1972)です。欲望を制度へと回収するオイディプス化の、家族主義や資本主義、さらには全体主義の体制維持との共犯関係を告発するこの著作は、68年パリ5月革命の最良の成果のひとつとも謳われました。

 

 D+Gは『アンチ・オイディプス』において、欲望とは「私」という主体が欠如するなにかを欲することではない、むしろ「私」という主体に先立ち、ただ生産する機械としての欲望がまずあるのだと提言します。

 例えば生まれたばかりの子どもにおいて、彼女/彼はまだ一個の統一体としては構成されず、口、手、肛門といった部分の「機械」だけがバラバラに存在しています。彼女/彼が彼女/彼自身であることに先立って、まず部分としての口が乳房に接続して母乳を摂取し、母乳を飲む口は胃に、胃は腸に、腸は肛門に、肛門は排泄物に接続していきます。あるいは彼女/彼はおもちゃや道端の石を手に取ったり口に含んだりして、世界との接続を多方向に広げていきます。

 この一連の接続の流れを動かしているのは、諸器官の統一体としての彼女/彼ではありません。口、乳房、おもちゃ、石といったバラバラの「機械」たちが互いに接続し合って、新たな出来事を生みだしているわけです。この生産の流れをつくりだす諸機械こそが欲望なのであり、すなわち欠如に先立って積極的に接続し生産する「欲望する諸機械(Desiring Machines)」がはじめにあるのだ―これがD+Gの欲望の捉え方です。

 

 

 「欲望する諸機械」による接続の流れは、接続を介して機械同士を互いに分節化する流れでもあります。しかしここでD+Gは、分節化に真っ向から対立する「器官なき身体(Body without Organs)」という考え方を「欲望する諸機械」の概念にぶつけていきます。

 

「身体は身体である それはそれだけで存在する したがって器官の必要はない 身体は感覚器官系ではない 器官系は身体の敵である」

 

 演劇家アントナン・アルトーの身体論を引用した概念である「器官なき身体」とは、諸器官の分節化、組織化を一切拒否する未分化な身体の在り方です。例えば発生前の胚や卵(らん)には口も肛門もなく、一切の組織は未分化で均質です。ある意味では静的で非生産的である生命のゼロ度にあり、死に瀕した身体と隣り合わせでもあるこの「器官なき身体」は、しかし未分化状態であるがゆえにこれから様々に分化、分裂し新たな形態を発生させていく潜在性に満ちています。

 

 

 分節化する「欲望する諸機械」と未分化を堅持する「器官なき身体」は相反するメカニズムとして互いに相容れない関係にあります。

 部分なき全体として充溢している「器官なき身体」の非生産性は、その身体を分節化し接続し作動させようとする「欲望する諸機械」の生産性の侵入を拒み、「諸機械」の働きかけを「器官なき身体」のゼロ度の表面上へと押し出します。しかしD+Gは「欲望する諸機械」に対する「器官なき身体」の反発を、「諸機械」による生産が「器官なき身体」の非生産的な表面上に書き込まれていくプロセスとして捉えようとします。

 

 「器官なき身体」の滑らかな表面上のある部分に、「欲望する諸機械」が侵入を試みて分節化を働きかけたとします。これを無化するエントロピーとして「器官なき身体」側からは反作用が働き、「諸機械」の作用をゼロ度に誘引しようとします。しかし実はこの反作用は「器官なき身体」に潜在していた力が「諸機械」の働きかけにより発動し引き出された結果であり、「器官なき身体」単体だけではその内部に眠ったままになっていたものです。逆説的にも、「器官なき身体」は「諸機械」の働きかけに反発することでその生産性を取り込み、「器官なき身体」だけでは生産し得なかった出来事を自身の表面上に書き込んでいくというわけです。

 

 

 「欲望する諸機械」の働きかけとこれに対する「器官なき身体」の反発、この二つの力により発生する出来事を、D+Gは「強度」という値として捉えます。「器官なき身体」は強度=0であり、このゼロ度の母胎に「諸機械」が様々に働きかけることで、「器官なき身体」の表面上で多様な強度がひしめき合います。そして「欲望する諸機械」が「器官なき身体」上で次々に諸強度を生産していく発生プロセスのなかで、はじめて世界を生きる「主体」が新たに誕生する―これが『アンチ・オイディプス』におけるD+Gの考え方です。

 つまり主体が欲望や身体に先立つのではなく、まず「欲望する諸機械」とこれに反発する「器官なき身体」がはじめにあり、「諸機械」が「器官なき身体」にいわば憑りつく過程で生産されるものが「主体」なのだというのです。

Ⅱ.絵画の「器官なき身体」

 

 「欲望する諸機械(Desiring Machines)」を引用した発想のきっかけは、オールオーバーな絵画の平滑な広がりを「器官なき身体」のいわばパロディとして読み替えることでした。

 美術批評家のクレメント・グリーンバーグは、モダニズムとはカントによって始められた自己-批判の追究であると考えた上で、絵画芸術が純粋な自律性を確立すべく物語や形態、三次元的なイリュージョンといった他芸術の要素を克服するプロセスとして近代絵画史を読解しました。そして絵画芸術のひとつの究極形式として、色彩と明度対比が一様に広がるオールオーバーな絵画の達成を称揚します。

 

 こうしたグリーンバーグの美術史観については、そもそも戦後のアメリカ美術を美術史のゴールに恣意的に設定したが故の議論の乱暴さもあり、近代絵画史の展開を包括的に捉え切っているとは言い難くもあります。が、モダニズムという文脈上で絵画が己の身体を組織する諸要素(諸器官)を徐々に克服していき、その果てにオールオーバーな部分なき全体、すなわち「器官なき身体」に辿り着いたのではないかとパロディ的に読み替えることで、なにか新しいアイデアを紡ぎ出すことはできそうです。

 

 

 ひとつの美術史的到達としてグリーンバーグに設定されてしまったオールオーバー絵画の、いわば「器官なき身体」的皮肉とは、まさしくエントロピーによって身体が強度=0に縛り付けられているが故、新たな生成を生みだすことができなくなってしまうことでしょう。

 もし絵画がマネからピカソの分析的キュビズムへ、そしてポロックのオールオーバー絵画へと自律性の極限に向かって進展するものだとすれば、強度=0の平衡に一度到達した絵画はその平衡を崩そうとしても、絵画史的な不可逆性によって(グリーンバーグのモダニズム観とはそういうものでした)自身のエントロピーに引き戻されてしまいます。強度=0の平衡自体は無限の静寂であり、死に瀕した身体と隣り合わせの世界です。到達点としての強度=0は、自身の内に留まり続けなければならないわけです。

 自己-批判の極限を目指すモダニズムのベクトルは、自ら導き出した最適解の一点に収束し進化の振り幅を失っていく危うさを孕んでいます。グリーンバーグのモダニズム観にとって、その最適解とは「器官なき身体」だったと読み替えることができるかもしれません。まるで進化の臨界点に「器官なき身体」としての卵(らん)が現れ、自らの進化の生産性を卵(らん)の内に封じ込めてしまったかのようです。

 

 

 ではオールオーバーな絵画の「器官なき身体」とは、生産性を失ったネガティヴなだけの身体なのでしょうか。

 「器官なき身体」についてのD+Gのその後の考察を見てみましょう。D+Gは『アンチ・オイディプス』の続編として書かれた『千のプラトー』(1980)において、織物としての「条理空間」と、フェルトとしての「平滑空間」という二つの空間概念を対比させています。なんらかの秩序によって組織化された「条理空間」とは、糸が反復して織り上げられた織物の生地のような空間で、固定された糸の割り振りがあるために布の広がりや織り目の多様性には限界があります。対して、繊維の複雑な絡み合いの集合体であるフェルト生地は一見すると均質でありながら実際には反復されている箇所はひとつとしてありません。縦横無尽にもつれ合う繊維が、生地全体に平滑でありながらも無限の変化を潜在させた空間をつくっているのです。このように、組織化されていないが故に無限の発生の契機を孕む創造的な広がりが「平滑空間」です。D+Gは『千のプラトー』において「器官なき身体」を反織物=フェルト状の「平滑空間」として読み替えているわけです。

 

 オールオーバーな絵画における色彩と明度対比の広がりは、固定された織り目の反復ではなく、フェルト状にあらゆる変化が充実している「平滑空間」です。先にも見たように、「器官なき身体」の未分化状態とは、むしろ新たな形態の発生を潜在させている卵(らん)のような充実した身体でした。そしてオールオーバーな絵画においても、その「器官なき身体」は閉塞と同時に創造的な突破口を孕んでいるはずなのです。

 

 

Ⅲ.絵画と「欲望する諸機械」

 

 今回の制作では一辺120㎝の正六角形にオールオーバーな広がりの絵を4枚描き、これを正三角形および二等辺三角形にそれぞれ6分割することで、計24枚の三角形のピースをつくっています。そしてこの24枚のピースを新たに連結し直すことで、絵画面を三次元方向に広げることを試みています。絵を分割し連結し三次元に展開するプロセスの土台になっているのがオールオーバーに広がるフィールド、すなわち今回「器官なき身体」に読み替えられた絵画の身体です。

 

 オールオーバーなフィールドは、単なる均質な質料としてどこでも分割・連結できるというわけではありません。単に均質なフィールドの広がりであれば(例えばカラーフィールド・ペインティングのようにムラのない均質な色面の広がりであれば)、そこに分割・連結をいう操作を加えても絵画面自体のコンテクストは何も変わらず、操作前と同じ均質さが残るだけでしょう。

 しかし、均質や反復とは異なるオールオーバーな色彩、明度対比、あるいは形態の広がりは、フェルト状に変化がひしめき合う「平滑空間」として、異なるコンテクストの発生の契機を自身の身体の内に潜在させています。作家が一辺120㎝の正六角形というフォーマットに従い紡ぎ上げたフェルト状のコンテクストは、部分が分割され異なるピースと組み合わされた瞬間、異なる色彩、異なる明度対比、異なる形態との出会いによって新たなコンテクストを発生させます。ここで生まれる新たなコンテクストは、三角形のピース同士を再び正六角形の平面という元のフォーマットには引き戻しません。むしろそこから飛躍して三次元方向に広がる多面体というフォーマットを獲得し、一枚の二次元平面上では見ることのできなかった色彩、明度対比、形態の展開を可能にします。

 このとき、絵画の「器官なき身体」はもはや強度=0に自らを封印する静的な身体ではありません。そこにあるのは自らの平滑さを逆手取り、潜在していた無数の強度を次々発生させることで自身を更新し拡張していく変容する身体です。

 

 

 なにが「器官なき身体」の変成する力を目覚めさせたのか。D+Gの議論に則るのであれば、それは「欲望する諸機械」であるはずです。

 今回の場合、絵画面を分割し、ピース化し、連結させていく操作が、絵画自身のフォーマットを生まれ変わらせる契機でした。とするとこの操作を、機械同士の接続、分節、流れの生成としての「欲望する諸機械」に読み替えることができそうです。すなわち文字通り機械的なルールによってお互いを接続し分節化していくこのシステムが、絵画の「器官なき身体」の平滑な広がりを侵犯し、自動機械のように次々と諸強度を発生させていく「欲望する諸機械」の正体である、と考えてみるわけです。

 お互いを結びつけあらゆる多様性を生産していく「諸機械」の駆動は、それ自体は主体以前の無目的な運動です。こうした非人間的で不気味とも言える機械の感触は、これまで作家自身が制作を重ねながら感じ続けていたものでした。果たして目の前の作品を生みだしているのは、自分なのか自分以外なのか―今回はD+Gの考え方を引用して、作品を再構成し生まれ変わらせている運動それ自体は、「諸機械」の側にあるのだと括り切ってみたわけです。

 主体以前の「諸機械」の欲望は、オイディプス・コンプレックスのように欠如の原理に縛られません。欠如する対象の一点へと昇り詰めていくのではなく、欲望は己の推進力で多方向に分裂し疾走し続けます。モダニズム的な極限への収束を回避し、多へと発散する道を拓く鍵は、このような欲望の機械的で楽観的な運動にあります。だからこそ、自分という主体からは切り離された「諸機械」の存在を、制作プロセスのいわばエンジンとして認めてしまおう―これが今回の“On Desiring-Machines”という展覧会タイトルに託したコンセプトです。

 

 

 ところで“On”を付しているのは、この作品そのものが「諸機械」というわけではないし、この作品を「諸機械」がつくりだしているわけでもないという付言です。「欲望する諸機械」はあくまで接続の流れそのものであり、「諸機械」が「器官なき身体」と出会い、その平滑な広がりに襲いかかることではじめて「身体」の創造的な発生が作動し始めるのでした。このとき「諸機械」によって「器官なき身体」上で引き起こされる出来事から―すなわち色彩、明度対比、形態の新たな出会いから―新たなコンテクストの生成を引き出しているのは、実は知覚する身体としての人間です。

 

 絵画の「器官なき身体」に襲いかかり新たな出来事を発生させる「欲望する諸機械」と、その出来事から絵画体験を実現していく作家、そして鑑賞者は、実は常に共犯関係にあります。二次元平面のフォーマットを逸脱して三次元に身体を広げるこの作品をつくりだしているのは「欲望する諸機械」ではない、「諸機械」の疾走を乗りこなす人間なのだ―これが“On Desiring-Machines”の意味するところです。制作プロセスの一端を「諸機械」に担わせても、作品から人間の居場所が無くなるわけではありません。むしろ知覚する身体が閉塞せず生きのびるための鍵が、「諸機械」との共謀にあるかもしれないのです。

The concept note for the solo show in 2019 "On Desiring-Machines"
Okubo Takahiro

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